「もうひとつの学校」のマッピング

ほんとは去年(1998年)の春のゼミのときにすでに指摘されていたことですが、ようやく、「自由な居場所」のマッピングをやってみました(^^;(1999.04.)


「フリースクール」の用語は混乱している

現在、アメリカにおいてフリースクール運動はやや下火になったと言われています。(現実は必ずしもそうではないようですが。)反して、日本では「もうひとつの学校」と呼ばれる場所がどんどん日の目を見るようになってきました。去年の春にはあまり見かけなかった、こうした場所の案内をしてくれる書籍は、今では書店で何冊も容易に見かけることができます。

情報が増えるのは非常に喜ばしいことです。学校という、今までフツーと思われてきた以外の居場所に関する情報はどんどん増えるべきだと思います。しかし、こうした「もうひとつの学校」の案内を目にするとひとつ気になることがあります。それは、「フリーって言葉は危険だなぁ」ということです。

実際、日本ではフリースクールというものは非常に多様な存在です。欧米のように「自由な学び」を目指す学校だけを意味するものではありません。そこには登校拒否・不登校児に対して、学校にも家庭にも存在しなかった自由な居場所を提供するという意味もありますし、徹底した個人対応の学習システムの意味もありますし、全体主義的な、生活丸抱えの更正システムも含まれているのです。こうした、用語の混乱を避ける意味もあって、近年では「フリースクール」と呼ばずに「オルタナティブスクール」と呼ぶところが増えたようですが、それもごく最近ではあまり耳にしなくなってしまいました。

経緯はともかく、日本には欧米のようにはっきりとした思想性をもったフリースクールという定義がありません。そうなると学校との連携と一口に言っても千差万別となるのは火を見るより明らか。とうてい手に負えません。そこで、こうした「学校」のマッピングをまず行い、それぞれの性格を明らかにしようと思います。

共通点と相違点

「もうひとつの学校」のマッピング

この図は分かりやすい指標として欧米のフリースクールの考え方を置き、これの要素として横軸にその学校が目標に掲げているものを「人間の命やいじめ」から「学力」まで並べ、縦軸に既存の学校への回帰性を並べました。

欧米のフリースクールは個々の子どもの力をきちんと伸ばすことを目標とし、そのために既存の学校のスタイルは合わないのだ、という考え方を持ったものが多くあります。したがって、既存の学校への回帰度は低く、脱学校的、また、そもそも自殺するまで無理して学校に通いつづけようとする人が少ないのか、子どもの全身を「守る」、ということよりもむしろ個性を「伸ばす」ことを問題意識としている、ということでいちばん右下に位置しています。

さて、日本の「学校」はどうでしょう?

インターネットハイスクール「風」

まず、アメリカのフリースクールと連携しているのだから「風」は当然欧米的だと思います。通学というスタイルすらとっていませんし、学習のためのカウンセリングは日常的に行われていても、いじめ問題などの心理的なカウンセリングを積極的に行っているということは聞いたことがありません。

東京シューレ

東京シューレは日本のフリースクールの草分け的存在ですが、それだけに非常に日本的特徴であるいじめ・不登校問題に熱心です。しかしその活動だけで終始しているわけではなく、心の回復ののち、やがて訪れる自発的な学びの意欲を伸ばすためのプログラム、というとちょっと語弊があるかな、意欲を受け入れることができるプログラムを用意しています。したがって既存の学校への回帰度、既存の学校との類似性はあまり見られませんが、問題としている対象はほぼすべての領域に渡っていると言えるでしょう。

通信制高校・サポート校

最近人気の上がっている通信制高校やそのサポート校はどうでしょうか? これらは既存の学校制度の上に成り立っているのですが、いわゆる「学校的」な場所ではありません。それは

  • 高校生の年齢の人たちばかりが学んでいる訳ではない
  • したがって全員が同じように通学することを前提としていない
  • ということは各自で学ぶ内容、課程が統一されていない

などが理由として挙げられるでしょう。

サマーヒル系の学校

フリースクールではなく「自由学校」であるとする「きのくに / かつやま子どもの村」ですが、これは通学はもちろんのこと住み込み、つまり寮生活を基本としています。そして集団生活を自分たちで切り盛りしていき、自分たちでものを生み出す中で様々なモノゴトを体得していくことを目標としています。集団生活前提という意味では非常に学校的ではありますが、そこに見られる「大人 - 子ども関係」は比較的水平で、集団生活におけるルールを大人が勝手に決めたり変更したりということはありません。大まかな時間割はありますが、細かな内容は柔軟に変化し、縦割りのクラスを基本としていて学年制はありません。集団と言っても同年の子どもばかりが何十人も同じ教室に閉じ込められる集団性ではなく、異年齢集団の中でどのように自己のポジションを決定し、どのように集団生活を運営していくか、ということを主体的に考えなければならない環境ということでは、非常に「非学校的」であるとも言えます。

というアンビバレントなニュアンスを込めて学校回帰性の軸はあえて特徴を設けず、集団生活を通じた個人の力量形成という点に重きを置いて、学力思考の学校と分類しました。

偉そうなことを言っておいてこの図にも多くの問題があります。

  • 「学力」のダブルミーニング
  • 「脱学校」の意味の揺れ

などは明らかに問題です。つまり、「徹底した個人対応学習塾」の言う学力と、「きのくに」の言う学力は明らかに違うのに、この図では同じになっていること、脱学校という言葉と非学校的という言葉がほとんど同じ意味に使われ、この学校的という意味が同じ現象であっても捉え方によって変わってしまう、ということです。

しかし、この部分に目をつぶってあえて話を先に進めます。そうしないと言わんとしていることを伝えられないので。

まず、こうした図にすることによって従来から気になっていたことが少しは浮き彫りになったように思います。それは、

  • 「居場所」という言葉だけでは表現しきれない、子どもの学習意欲への対応

です。多くのフリースクールが無理して今の学校に通う必要はないと言い、そういう子どもたちのための場所を提供しています。それはそれで重要なことですが、子どもに必要なのは安全な場所だけではなく、意欲を伸ばせる場所でもあるだろう、と思うのです。安全な場所で心の回復を図って、その後どうするのか? そこが大問題なのですね。その部分をほとんど本人任せなのか、フリースクールで応援するのか、というのは大きな違いのような気がします。